平蔵地蔵の由来石碑から抜粋
江戸の末1860年頃 鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた三人連れの乞食がいた。 

その一人“平蔵”は或る日 多額の金を拾ったが落とし主を探し当然のこととして金を返しお礼の小判を断った。

そのことを知らされた仲間の者は金を山分けすれば三人とも乞食を止めて暮らせたのにと腹を立てて正直者の平蔵を

自分たちの小屋から追い出し凍死させてしまった。これを聞いた金の落とし主である仙台屋敷に住む若い侍が

平蔵の遺体を引きとり青物横丁の松並木の所に手厚く葬りそこに石の地蔵尊をたてねんごろに供羪しつづけた。


明治三十二年十月京浜電車が開通することになったが生憎その線路に地蔵尊の土地がかかり 時の海雲寺住職 

横川得諄和尚が菩薩のような功徳の君子 平蔵を長く社会の木鐸たらしめんと願望して当寺境内に移してもらい回向した。

 

たまたま篤信者あり平蔵地蔵尊の信仰こそ荒んだ人心を洗う甘露の法乳であると賛同と援助を得たので海雲寺並に荒神王を

参詣する総ての人にお参りいただくため本尊前庭に移し奉安することとなった ここに平蔵地蔵の由来を略記し讃仰の資とす。
昭和六十一年十月吉日  龍吟山 海雲寺二十三世 如雲裕生 僅誌